椋鳩十先生は『頼まれごと』で児童文学を書き始めた

今日は自転車で鹿児島県姶良市加治木町に行ってきました。

自宅の重富から5kmほどで着きます。

 

昨年の2014年6月から姶良市は重富に住んでいますが、重富に暮らすようになってから、日本の小説家、児童文学作家の椋鳩十先生を身近に感じるようになりました。

本日、加治木町で見つけた看板が上記の写真です。

 

椋鳩十先生のウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%81

抜粋させていただきます。

 

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椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 – 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家。本名は久保田彦穂(くぼた ひこほ)。

1905年1月長野県下伊那郡喬木村阿島北出身。旧制飯田中学(現・長野県飯田高等学校)、法政大学法文学部(のちの文学部)国文科卒業。大学在学中、佐藤惣之助の『詩の家』同人となり、1926年に詩集『駿馬』を発表する。卒業後、鹿児島県熊毛郡中種子高等小学校に代用教員として赴任するも、夏にふんどし1つで授業をしたため3ヶ月で解雇となる。 その後に姉・清志の紹介により、同県加治木町立実科高等女学校の国語教師に着任する。仕事の傍ら、宿直室を使い作家活動を続け、 1933年に最初の小説『山窩調』を自費出版する。この時初めて椋鳩十のペンネームを使った。

『山窩調』も発禁処分となったが、同年、『少年倶楽部』の編集長であった須藤憲三より執筆依頼の手紙が届く。椋は数年放っていたが、須藤の送った「怠け賃」に感激し、児童文学を書き始めた。そして1938年の『少年倶楽部』10月号に、初の動物物語である『山の太郎熊』を掲載する。

1947年には鹿児島県立図書館長を務める。館長としては、GHQによる軍国主義的図書館資料の排除(実質上の廃棄・焚書)命令を書庫に封印する事を条件に命令実行を回避するなどしたが、財政難によって図書館再建は困難を伴った。そこで、県と市町村による図書館の共同運営を行って、市町村立図書館の設置が出来ない市町村では、教育委員会や公民館に図書館(サービス・センター)を設置して県立図書館がこれを支援した。また、県立図書館が主導して図書を購入し、市町村立図書館やサービスセンターに貸し出す事で市町村図書館・サービス・センターと県立図書館が役割分担を行う事で相互の役割補完を目指した。椋のこの運営方式を図書館学では「鹿児島方式」と呼称しており、後の図書館ネットワークの構築に大きな影響を与えた。また、創作と並行して1958年には島尾敏雄を館長とした奄美分館を設置、1960年には読書運動である『母と子の20分間読書』運動を推進した。 1967年からは鹿児島女子短期大学教授を務めた。

鹿児島県内の小中学校・高校の校歌に詩を提供しており、今なお歌われ続けている。なお、作詞者名にペンネームではなく本名で名前が書かれている場合もある。 白い猫が好みで、小説「モモちゃんとあかね」のモデルになった猫のモモを飼っていたときには、モモの産んだ子猫のうち白い子猫を手元に残し、小説でもモモを白猫として描いている。[1]

1987年12月に、肺炎のため逝去。享年82。

長野県下伊那郡喬木村に椋鳩十記念館、鹿児島県姶良市加治木町に椋鳩十文学記念館がある。1991年より椋鳩十児童文学賞が開催されている。

2014年現在『大造じいさんとガン』は、小学5年生の国語教科書の教材になっている。

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ここに書かれていますが、椋鳩十先生は長野県のご出身。

ご縁があられて、鹿児島に在住されていたそうです。

お若い頃に加治木町立実科高等女学校の国語教師に着任されています。

鹿児島県熊毛郡中種子高等小学校に代用教員として赴任するも、夏にふんどし1つで授業をしたため3ヶ月で解雇となる。

 

と書かれていますね。

すごいです。

 

2012年8月に

『椋鳩十さんの住居へ』というブログ記事を書いていました。

こちら

 

現在は鹿児島県姶良市加治木町に『椋鳩十文学記念館』があります。

http://www.city.aira.lg.jp/muku/gyosei/shisetsu/bunka/muku.html

〜動物文学を書き始めたのが加治木町であり、約20年間在住したことから、「椋文学発祥の地」として、また、「椋鳩十の第二のふるさと」として、平成2年に開館しました〜

と書かれています。

 

長野県下伊那郡喬木村には『椋鳩十記念館』があるそうです。

http://www.vill.takagi.nagano.jp/library.html

長野県の『椋鳩十記念館』。

いつか行ってみたいです。

 

本日、撮影した看板を見つけて、感動した理由は

頼まれごと』で

児童文学を書き始められたということに氣付いたからです。

 

敬愛する小林正観さんは「釈迦の教えは感謝だった」という本の中で、

このように書かれていたそうです。

 

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「釈迦の教えは感謝だった」 小林正観

《三つの分野》

P179〜

人間だけがこの3つのジャンルを持っているのです。

「芸能、芸術、スポーツ」

これは人間が精神活動として行うもので、実は人間が周りの人間に喜ばれるためという活動を凝縮させた結果、浮かび上がってきた3つのジャンルです。

自分の衝動で絵を描いている、自分の衝動で美しい音楽を作ったのだというふうに表現する人はいますが・・・そう思ってもかまわないのですが・・・実はこの3つのジャンルは、「喜ばれたから嬉しい」というのが、すべての動機になっています。

例えば、宮廷音楽にせよ宮廷絵画にせよ、いま残っている名画・名曲とされているものは、ほとんどが宮廷などから頼まれたものです。依頼されて作ったものでした。自分の内なる側からの欲求の結果として作ったというものはほとんど残っていません。頼まれたので仕方なく・・・と思ったかどうかは分かりませんが、とりあえず頼まれたことを淡々とやった結果のものが今日、音楽も絵画もすべて残っているのです。

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頼まれごととしての仕事が『後世に残る仕事』であった

というような内容の文を覺えていたので、

椋鳩十先生が『頼まれごと』で児童文学を書き始めたということに感動しました。

 

以下、webサイトからの抜粋の文になりますが、

日本で初めて本格的な動物文学のジャンルを切り開いた作家であり、

「片耳の大シカ」「マヤの一生」「カガミジン」など不朽の名作を数多く残し

椋鳩十の動物文学は、動物の生態を、生息する自然の中できわめて正確に描き

動物と人間とが自然の中で共存する大切さを訴え、

鹿児島で一生を過ごした作家

の椋鳩十先生、本当に素晴らしいです。

 

鹿児島にご縁があられたこと、ありがたいです。

 

子どもの頃から、椋鳩十先生の本が大好きで、小学校の図書館でよく讀ませてただいたことを覺えています。

現在、鹿児島県南九州市頴娃町で育ち、現在は加治木町と同じ『姶良市』は重富在住ですが、

椋鳩十先生を身近に感じることのできる姶良市は重富に住むことになったご縁に感謝です。

素晴らしい作品を残してくださった、椋鳩十先生、ありがとうございます。

 

感謝いっぱい。

今日もお陰樣です。

ありがとうございます。