鹿児島市に住んでいた5年ほど前、大久保利通の周りの評判は良くなかった。でもその頃、なぜかよく目にしていた大久保利通の書が素晴らしくて、感動して、その噂に違和感を感じていた。『書は人なり』だから。のちに、評判とは対照的に、大久保利通の素晴らしいエピソードを讀んだり、聞いたりするうちに、大久保利通の書がなぜ素晴らしいのかが、腑に落ちていった。今でも信じている。そして、今朝、あるメモ書きを發見した。日本近代書道の父と呼ばれている人が、大久保利通に仕えていた官僚だというメモだった。メモ書きの内容はすっかり忘れていた。日本近代書道の父と呼ばれた人。名は日下部鳴鶴。明治三筆の一人だ。日下部鳴鶴。中林梧竹。巌谷一六。中林梧竹は昔から好きな書家。日下部鳴鶴のことはよく知らなかったのだが、大久保利通とご緣があった人であったということをあらためて知り、感動したのだった。日下部鳴鶴は大久保利通が他界した後、書道に専念していったそうだ。鹿児島で生まれ、育った大久保利通。わたしも同じ鹿児島で生まれ、育った。故郷の穎娃町別府では、わたしが子どもの頃、書道が盛んだった。大久保利通も、ここの鹿児島の地で書を書き、鍛錬したのだろう。大久保利通に仕えていた官僚の日下部鳴鶴が、日本近代書道の父と呼ばれるまでになったというエピソードに、感動した朝です。書は大久保利通の座右の銘『為政清明』から「清明」をピックアップして書かせていただきました。清明(せいめい)という響きが昔から大好きです。大久保利通先生、ありがとうございます。
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